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    [ 2008-06-28 10:59 ]
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ピンク映画と「視覚的快楽と物語映画」
生まれて初めてピンク映画を見る機会があった。
それも、女性監督の。

『第七官界彷徨ー尾崎翠を探して』(1998)、『百合祭』(2001)、『こほろぎ嬢』(2006)の監督でもある、浜野佐知監督。
1971年の監督デビュー以来、30年以上にわたって、ピンク映画300本を制作、日本のセクシュアリティの現実と向き合ってきた監督である。

今、成人映画館にかかっているその作品は、ちょっとうんざりするシーンも多かったが、心地よく、すっきりするシーンも随所に挿入されている、さすが女性監督!
それも最近「フェミニズムに雪崩れ込んでいる」監督の作品で、吹き出してしまうこともたびたび。

ピンク映画というのは、日本独特のもので、1962年に始まり、いくつかの危機を乗り越えながら、最盛期は全国の500館の成人映画館で、今は110館の映画館で上映されているそうだ。

聞いて驚いたのが、決まり事の多さ。
最初から5分と終わり5分前には「濡れ場」を入れること。女性3人、男性3人の話し。若い女優を一人起用すること。もちろん、見せててはいけないものものがいろいろある。ヘアーは解禁になったが、シーンによってはダメ、 などなど。
そうすると、1時間の作品のうち、30分はsex関係シーンで、ストーリは残り30分で展開させてなくてはいけない、ということになるそうだ。
そんな制約の中で、浜野監督、すごいメッセージを入れ込んでいる。

ピンク映画の観客は、ほとんど男性。それも50代以上とのこと。
その観客にこの映画が上映されているなんて、すごーいことだと思う。
とはいえ、浜野さんは女性を美しく撮るから、そんなメッセージなど耳に入らない男性観客も多いのだろう。
それでも、浜野さんのメッセージは、男性の中にも響くものがあるかもしれない。
堅固、攻撃的なものがすべてではない。
「エロを見にいって、フェミを浴びる」と評されたとも話されていた。
浜野監督、かっこいい。

ようやく、話題になっていた『百合祭』(2001年)も見ることができた。
「刻んだシワの一本にも、人生のプライド!女たちの性エネルギーが再起動する」

ざっとあらすじも知っていたのだけれど、意外にも涙がこぼれた。

「多分、男の監督が撮ったら『一人のジジイを奪いあって修羅場を演じるババアたち』が描かれていたことだろう。確かに原作は、男である三好さんの物語だ。百合は一本の茎にいくつもの花をつけるが、彼は重たい百合の花を一身に支える茎として存在する。けれど、私はこれを女たちの物語にしたかった。一人の男を奪い合うのではなく、共有する女たち、生殖という概念から解き放たれて、瑞々しく羽ばたく女たち、自ら選択してエロスを楽しむ女たち、これこそ私にしか撮れない映画ではないか。」

「私はあくまでも女性に観てもらう作品を作りたい。しかし、本当に女性たちは、あからさまなポルノを望んでいるのか?視覚よりも、心に届く性を描けないだろうか。そう考え始めた時に、『百合祭』と出会ったのだった。」
(「女が映画を作るとき」、浜野佐知)

「心に届く性」に触れたのだろう。
そして、年をとっていくことへのポジティブなまなざしに!
女性監督の存在が、頼もしい。



1975年に書かれ、「フェミニスト映画理論を代表する記念碑的論文」と言われているローラ・マルヴィの「視覚的快楽と物語映画」という論文を思い起こしている。

「本論文は、個人主体における魅惑という現象の既存の複数パターンと、主体を形成した社会構造により、映画の魅惑がどこで、また、どのようにして強化されるかを発見することを目的として精神分析を使用しようとする。性差が映像、エロティックな視線、そして美観(スペクタル)を統御し、そして映画がどのように性差の社会的に制度化された認識を反映し、また矯正さえしてしまうのかということがこの論文の出発点である。」と始まる。
(斉藤綾子訳、「視覚的快楽と物語映画」から。『新・映画理論集成]、フィルム・アート社、1998年)

「ピンク映画」と呼ばれる映画の観客は、ほとんど男性である。
浜野さんは、「男性の撮るピンク映画とは違う、女性をきれいに撮る映画を作りたかった」と話されていた。浜野さんの撮った映画は、男性観客にも受入れられ80年代には浜野映画ファンが出現したそうだ。
浜野さんの視線は、観客の男性の視線と共通し、その欲望を強化したのだろうか?
あるいは、その欲望の方向性を変化させたのだろうか?
先日見た「ピンク映画」は、欲望の方向を変えようとしている。
「百合祭」では、ローラ・マルヴィが主張していた「快楽の破壊をラディカルな武器とすること」が実践されていたように思うのだけれど。

日本でも、映像作品へのフェミニスト批評と実践がつながり、様々な可能性が発展することを期待。
by artemisk | 2008-06-28 10:59 | fragment
IMAGINE PEACE


http://www.imaginepeace.com/

" Yoko Ono: Onochord, 2004"
http://www.imaginepeace.com/imaginepeace72.html
by artemisk | 2007-12-08 14:32 | fragment
自分の人生に自分が微笑む/Karakara
自分の興味のベクトルの向きの違いに、時々ため息が出る時がある。
私の頭の中では、つながるはずなのに、
現実では、なかなかつながらない。

今、原美術館で開催中のピピロッティリストのオープニングに、先日行ってきた。
若い女性に人気のようなのだけれど、数年前の資生堂ギャラリーでの作品は、ぴんとこなかった。今回は、1997年のヴェネチアビエンナーレで話題となった映像「Ever is Over All」も展示されるというので、久しぶりに原美術館へ。


私の家から、原美術館は遠出。電車に1時間はのっている。
長旅のおともは、1970年代のウーマンリブの中心的存在だった田中美津さんの「かけがえのない、大したことのない私」
行き帰りの長旅も、あっという間。
彼女の発する言葉は、私に響いてくる。
どのようにして、言葉を届けられるか、ずっと日々考えてきた人の為せる力。

本のタイトルになっている「かけがえのない、大したことのない私」というフレーズも好きだけれど、現在、鍼灸師となってハリ治療所を開いている彼女が、日常的な養生の大切さを伝える「自分の人生に自分が微笑む」という表現も心にストンとくる。
「よく頑張ったね」と自分に伝えるために、できる限りいい顔でいると、脳が反応して、身心を活性化してくれるそうです。

「アタマデッカチ・フェミニズムじゃ自分一人も幸せにできない。あなたの生き難さから始まる、あなたの言葉で語るフェミニズム。」(あとがき、「かけがえのない、大したことのない私」)



「Karakara」は、ピピロティリストの展覧会のタイトル。
これは、彼女自身がつけたそうで、解説には、「作品を作り続けることで満たしたい欲求がある一方で、学問的な難しいフェミニズムを超え、からからと笑いながら自らの女性性を肯定し、ポジティブに生きるリストの現在を端的に表しています。」とある。
(『フェミニズム』は超えるべきもの!?)

「Karakara」は、とても興味を惹かれる展覧会でした。
彼女の映像作品は、ミュージックビデオのようなのだけれど、差異がある。
インスタレーションも、良かった。

彼女は、「フェミニスト」のアーティストだ、と思う。
本人も「私は、すべての人がそうであるように、フェミニストです」と語り、「いいフェミニストにはなりたくない」とも言っている。わかる!
「フェミニスト」であるかどうかが重要なのではなく、私が心動かされたのはどこかが、私の興味なのだけれど。現在探索中。

いくつかの作品はYou Tubeでも見られる。
"I'm not the girl who misses much" (1986)にも惹かれた。
彼女のインタビューがのっている岡部あおみさんの「アートと女性と映像」の表紙も、この作品の写真だった。

今、他の彼女のインタビュー記事を読んでいるのだけれど、
田中美津さんの言っていることと、どこかつながっているように感じる。
私にとっては、うれしい発見。

微笑みでもKarakaraとでも、自分を笑いながら、
ベクトルの違いをつなげて、自分の言葉で語れるようになりたい。


Pipilotti Rist: Karakara
http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html
「かけがえのない、大したことのない私」(田中美津、インパクト出版会、2005年)
「アートと女性と映像」(岡部あおみ、彩樹社、2003年)
by artemisk | 2007-11-28 22:56 | fragment
SHOOT
今、ジョナス・メカスの「メカスの映画日記」(飯村昭子訳、フィルムアート社)を、約10年ぶりに再読している。

ニュー・アメリカン・シネマ(アンダーグラウンド・シネマ)の産婆役であるメカス(詩人、映像作家、NYのAnthology Film Archivesのディレクター)が、1950年代後半から新しく出現した映画をどのように語り、批評しているのかをもう一度読みたくなったのだ。
いろいろな発見があり、おもしろい。

「1962年5月10日
映画批評について
もし、批評家というものに何らかの役割があるとすれば、それは、彼の周囲にあるすぐれたもの、美しいものを探すこと、人間が内部から成長するのを助けるような何かを探すこと、
そしてそれに、他の人々の注意を向けさせ、説明し、解釈することだーあたかもそうしたささいな誤ちや未熟さが、実際に最終的な問題であるかのように、ささいな汚点、誤ち、未熟さをつまみ出すことではない。」(「メカスの映画日記」)

時代が経ったからか、私が年を経たからか、前回読んだ時より、近くなったような気がする。
最近、ようやく字幕つきで「リトアニアへの旅の追憶」(1972年)を見る機会があり、作品の背景も新たにしたところ。

私は、何を見て、何を読んでいたのだろう!?

「1971年4月8日

 この町のひとたちは、自分の身をまもるために撃たねばならないことがしばしばある。しかも本物の銃を手にして。
 わたしも身をまもろうとして、日記映画を撮った。自衛のため、周囲の惨憺たるありさまにおしつぶされないように、わたしの感覚のすべて、存在のすべてに向けられる攻撃をふせぐために。そう、自己防衛の手だてにわたしは映画を撮っている。わたしの日記は、ある側面を強調し、ある側面を見せずにおくことによって『都市』、『土地』を正す試みと見てもらってもよい。だから身のまわりのささいなことがらに目を向け、それを愛でようとわたしはくりかえすのだ。・・・」
(「フローズン・フィルム・フレームズー静止した映画」、ジョナス・メカス、木下哲夫訳、フォトプラネット編、河出書房新社)

私の目の前には、カメラ、コンピュータを手にした女性たちが、パーソナルな視点で、自分の日常から生み出している映像作品がある。

by artemisk | 2007-11-10 10:58 | fragment
黒い影
久しぶりの展覧会のはしご。
それも、アーティスト・トーク、トークイベント付きだったので、
咀嚼するのに時間がかかりそうである。

一方、既にあふれそうなものがあるのも事実。
何かわからない、ムシャクシャするもの、不安なもの、
多分、昨日見て、聞いたものの反映なのだろう。黒い影。



作品を見る機会を逃していた、塩田千春さんの個展。
「沈黙から」 塩田千春展
(神奈川県民ホールギャラリー、〜11/24)

大掛かりなインスタレーション作品、映像作品、作品写真展示から構成され、静けさの中、心揺り動かされるいい展覧会だった。
そこにとどまって漂っていたい、離れがたい場。

と同時に、別の角度からの疑問もふつふつと湧いてきている。
1972年生まれの彼女が、どうしてこのような表現が可能になり、メインストリームでも評価されているのか。

彼女の作品を見ながら、1960年代、70年代の女性アーティストの作品が浮かんできた。糸を織りなすインタレーションは、Faith Wildingの"Womb"を。(私は出光真子さんの「Womans's House」で見て、惹かれている作品。塩田さんは黒い糸だけれど、確か"Womb"は白い糸)1998年の"Try and Go Home"のパフォーマンス写真は、キューバ生まれで、女性に対する性的暴力をテーマとした作品を制作していたアナ・メンディエタのパフォーマンス作品を彷彿とさせる。
インターネットで、彼女の作品について調べていたら、彼女が、アナ・メンディエタに惹かれ、影響を受けたということがわかった。

彼女自身もインタビューに答えているし、評論家の方も丁寧に断りを書いている。
「フェミニズムには興味がありません。/関係がありません。」と。
私も必ずしも関連づける必要はないと思うが、わざわざ否定したり、断りをすることが必要なのかわからない。ただ、わかることは、「フェミニズム」は避けられている、嫌われている、特にメインストリームのアート界では。

彼女が母校の京都精華大学で展覧会を開催した時のギャリートークでの発言が私には、とても納得がいく。

会場2:
塩田さんの作品の衣服でも、すごく広がったスカートを使っていらっしゃいますよね。そういう作品がすごく、やっぱり女の人というものを感じるんですけれども、塩田さんにとって、自分の性と作品と、どのような関連を持っていますか。
塩田:
私は日本にいるとき、ずっと女性としてコンプレックスを持っていました。女であるから、こういった作品はできないとか、そういった思いがあったんですけれども、ドイツに行って一切なくなりました。
ドイツに行ってからは、女であっても男であっても、芸術を表現するという言葉というか、その表現に対して、男でも女でも関係ないという言葉に共感を受けました。
実際、私の身体の内に対する女であるとか、目で感じる思いであるとかを理解したら、男でも女でも関係ないのではないかという思いに達しました。

http://www.kyoto-seika.ac.jp/fleur/schedule/2005/shiota/gallerytalk.html

「自分の表現したいことができる。」
そういう場が、空気がドイツにはあり、マリーナ・アブラモヴィチ、レベッカ・ホーンに師事し、それらを確信し、作品を精力的に制作し、評価されてきたのではないだろうか。

武蔵美の教授の岡部おあみさんも、n.paradoxa(イギリスのinternational feminist art journal、「ドクメンタ・マガジンプロジェクト」に参加)の"If you could choose a woman artist, whose work has changed your views of subjectivity and revealed new dimensions to what constitutes your feminist political and/or aesthetic agenda(s), who would it be?"という質問に。

塩田千春さんをあげている。
"Its power infiltrates the unconscious of its viewers. Shiota expressed in this absolute silence the negative darkness women experience and through these intense metaphors visualized the absence of enormous
woman’s body as an obstinate and accumulated disgrace. "
magazines.documenta.de/attachment/000000265.pdf

アーティスト・トークに参加した人も2/3は女性だった。女性の美大学生も、熱心に質問していた。

7年前に開催した「越境する女たち」展のアーティスト・トークのテーマが、「women's artとは?」というもので、シンガポールのアマンダ・ヘンの「Women's artなどなくて、art by womenだ」という発言に納得したのを思い出す。

「焼けてしまったピアノの音を、聞こうと待っている人に弾くこと、これがアートだと思っている」と話す彼女の今後の活躍が楽しみだ。




もうひとつの展覧会は、茅場町のGallery MAKI で友人が企画している、
洪 成潭( ホン・ソンダム )展「靖国の迷妄」(11/2〜22)
http://www.gallery-maki.com/

ある季節にはトピックにはなるけれど、宙吊りにされたままの「靖国」。
「靖国」とは何なのか? 作品には黒い影が覆う。

トークの中で、洪さんは、多くの親しい日本人の友人と接している時、日本人を「抑圧」しているものを感じ、辛いと。
無意識の中で「抑圧」されているものがあるのだろうか。
黒い影。

「日本人のアーティストは、どうして靖国を表現しないのか?」
と日本人のパネラーからの問いかけに、著名な男性アーティストが、「できない」と。
韓国でも、もちろん政治的なテーマを表現することは、簡単なことではない。
日本のメインストリームの美術界で活躍するアーティストが政治的問題を直截に表現することは、アーティスト生命の生死に関わることなのだろうか。そうなのだろう。

「芸術表現というのも制度のなかで行われている。制度とは具体的には、美術教育、展覧会、美術館、文化助成金、美術ジャーナリズム、評論、美術史研究、美術出版などだが、その一郭に専門家として参加するのはなかなかたいへんで、特に既存の規範からはずれた表現者、評論家、研究者には居心地の悪い世界である。いや、規範からはずれていると、結局は活動を諦めて消えてしまうから、『はずれ』として居つづけることはごく稀だと言うべきだろう。では日本における芸術的なるものの規範とは何かといえが、没歴史的、没政治的で私的な夢の表現としての感覚美であり、観者に期待されるのは、その美に世界に陶然と一体化する受動性である。」
(「不穏当な観者になるために」、萩原弘子、「女たちの21世紀」 No.23 2000.7、特集 アート・女性・アジア)

"For Japanese women, myself included, the feminine body (that is, our own bodies) is not an easy topic to discuss. The social taboo attached to it is still oppressively strong, with the woman’s body primarily deemed a sexual site for male interests. It is almost as though we own neither our bodies nor the right to talk about them. " (Reiko Tomii independent scholar, New York, 前述 n.paradoxa)

タブー。

「いまの日本社会の中には、真綿で首をしめるようにやさしくあなたを追いつめる、見えない力があります。あなたは少しずつ後ずさって、やがて安全なオリの中に囲い込まれるのです。オリの中で、あなたは一生、満足かもしれません。もし、あなたがほんとうにそれで幸せなら、誰にも、あなたの幸せをじゃまする権利はありません。
でも、もし、あなたがそのオリから、一歩でも外へ出ようとしたら、・・・出光さんのかつての作品の中で響いていたような、暴力的な声が、あなたを打ちのめすでしょう。」(「あなたへのプレゼントー出光真子さんの作品」、千野香織、「私がつくる。私をつくる。」)

何がこう私をイライラさせているのだろうか。
by artemisk | 2007-11-04 08:35 | fragment
「The Murmuring」
「The Murmuring(低い声)」
これが原題だったのか

『ナヌムの家』と紹介されている、元「慰安婦」の女性たちの日々、個性、生き難さを、クルーも生活を共にしながら撮影したドキュメンタリーの原題。

murmuring、マーマリング、つぶやく

先週、山形国際ドキュメンタリー映画祭『アジア千波万波』の審査員として来日しているビョン・ヨンジュ監督の映画とトークに行ってきた。

『ナヌムの家I』(1995年)、『ナヌムの家II』(1997年)、『息づかい』と、3作品一緒に、それもフィルムで上映されるのは、稀な貴重な機会。

今回は、『息づかい』(1999年)を初めて見た。
前作2作は、見てから既に5年は過ぎているので、記憶もあいまいなのだけれど、ハルモニたちに寄りそい、彼女たちの姿をフィルムにおさめているその気迫、社会を揺さぶる力は忘れられない。

トークの中の、彼女が言葉を探す一瞬、語りながら動く手がとまる一瞬、
はっとする、何かが深く漂う。
撮影に過ごしてきた時の重さだろうか。

監督自身も言っていたように、『息づかい』は、作品として一番よかった。

「お姉さん、どうしてそんな風に手をぎゅっと握っているの。
手は、こんな風にひろげないと」
少し年が若く元気なハルモニが、年老いたハルモニを見舞う。

痛みを知る「個」と「個」のむすびつき。
それが描きたいテーマだったと。

帰り際に、監督に握手をしてもらう。



また、女の子が殺された。
やりきれない。
by artemisk | 2007-10-19 18:58 | fragment
政見放送
明日は、いよいよ参議員議員選挙。

政見放送を聞きながら、一人の女性アーティストを思い浮かべている。
1983年の参議員議員選挙に雑民党から立候補した岸本清子(さやか)さん。
1960年代にかの「ネオダダ」に参加し、1988年に亡くなるまで、前衛アーティストとして、時代を疾走された。

「"女性とアート"プロジェクト」の方々の手により、再評価され、カタログ(詳細な作品リスト、評論)も発刊され、私も作品に触れる機会を得た。

「ずずいっと、隅から隅の、全国のテレビの前の皆さん、地獄の使者にてござります。」・・・と始まる、政見放送。
レクチャーの中で、録画を見たけれど、すごい迫力!
人間の考え方の転換を主張されている。

政見放送も街頭演説、立ち会い演説会も全て、彼女のパフォーマンスの舞台に。こんなに多くの人が見る、パフォーマンスのステージはないだろう。

参考:
「ネオダダから21世紀型魔女へー岸本清子の人と作品ー」
"女性とアート"プロジェクト・編 (1997年)

by artemisk | 2007-07-28 09:40 | fragment
「『概念』と『文脈』」
おととい、女子美術大学で開催されたジュディ・シカゴ講演会、 「『History』から『Hertory』へーフェミニズムアートの過去、現代、そして未来ー」に行ってきた。

大教室は満員で、補助椅子がでていた。
ざっと見て、3/5ぐらいが女子大学生。そして、私より年上の女性の方の参加も多かったようだ。多分、前回の彼女が来日した時(1991年頃)にも参加した方々なのだろう。

思った以上の学生の参加に、ちょっとした戸惑い。
「フェミニズム」「フェミニズムアート」に、どんな風に反応しての参加なのだろうか。
講演会の後で知ったのだが、「ジェンダー・アート」という授業があるのだそうだ。(「ジェンダー・アート」とは何だろう?)

ジュディ・シカゴは、黒いシャツ、黒いミニスカート、黒いタイツと全身黒の装いで、パートナーと日本在住の甥と一緒に登場。
パワフルな活動から想像していたより華奢な印象を受けた。

講演の中心部分は、既に用意された日本語訳を通訳の方が、スライドと交えながら、読み上げるというかたちですすめられた。
ジュディ・シカゴが話す時は、ゆっくりと、はっきりした英語で学生に、聴衆に語りかける。

女性の表現、見えなかったものを見えるようにしてきた「フェミニズムアート」、その歴史を発掘し、かたちづくってきたものを、さらに未来に残すことの重要性が繰り返し語られていた。
後から来る世代が、また同様な苦しみや闘いを強いられることがないように、歴史を積み重ねていくこと。
70年代から80年代に花開いたフェミニズムアート(このあたりのことは、彼女の著書「花もつ女」)、その後訪れたバックラッシュ、そして今に続く「闘い」。

以前書いたように、今年、アメリカでは、ニューヨークのMOMAのレクチャー、ロスのMOCAの「WACK!芸術とフェミニズムの革命」展、ブルックリンでの「グローバル・フェミニズム」展と、フェミニズムアートの展覧会が続々と行われている。

先日のI&G(イメージ&ジェンダー研究会)で行われた、ニューヨーク在住の美術研究者の方のフェミニスト・アート展の報告で、この一連の流れが、The Feminist Art Projectによって、バックアップされていることを知った。
そこには、私も知っている、フェミニズムアートの研究者、批評家、キュレータが名前を連ねている。
アメリカのフェミニズムアートのひとつの到達点を見る思いと同時に、そのミッッションに書かれている、「このプロジェクトは、文化的記録から女性を継続的に消し去ることへの介入です。」という文章に、ハッとした。
http://feministartproject.rutgers.edu/

彼女たちは、常に「闘っている(struggle)」のだ。
struggleして、獲得したものを、手放すことのないように。
次の世代に手渡していけるように。

彼女の講演(日本語訳部分)で、何度も繰り返された「『概念』と『文脈』」。
私にとっても、とても興味のあるところ。
自分が今やっていることの「文脈(context)」を常々考えている。たとえば、フェミニズアート、パフォーマンスアート、実験映像、ビデオアートの「文脈」(歴史的位置づけといってもいいのかも)が、日本ではなかなか見えてこない。

彼女たちは、美術史の中での女性の存在、表現を、見えるようにし、美術史の中に、女性アーティストを、自身を位置づけてきたのだ。そして、それぞれの活動を現在進行形で展開している。

1972年に、彼女と学生たちが表現の場として作り上げた「Woman's House」は、画期的なプロジェクトだったのだろう。
私は、そこに参加していた、Suzanne LacyやFaith Wildingの作品、その後の活動に興味がある。彼女たちは、「アート」の概念を変える、という方向へ向かっていく。

日本のウーマンリブの世代にも、ジュディ・シカゴたちの活動の影響はあったようだ。Suzanne Lacyのパフォーマンスを参考にした、アクションを起こしたり、Faith Wildingの有名な「Waiting」というパフォーマンスを、再演していたようだ。(行ったアクション、パフォーマンスの話しを聞いた私の推測だけれど。)

とはいえ、昨日のジュディ・シカゴの講演会場は居心地が良くなかった。
「『概念』と『文脈』」の溝が、ズレが、そうさせたのだと思う。

ひとつは、言葉の問題。
いくら翻訳が堪能であっても、その語られる『文脈』の理解の仕方が異なると、どこかズレてくる。
ジュディ・シカゴのパートナーのことを「ご主人」の訳された時から、「???」である。

そして、講演会の設定環境。
分厚い紙のりっぱなチラシ(なぜかピンクと赤を基調、どうして「女性専用車両」も「女性」というと、ピンクなの?)、男性による会場の手厚い警護、女性学長のちぐはぐなご挨拶。
主催者の方の口から何度か出てきた「(これからは)ジェンダーによるのではない、ヒューマニティーをめざしたアート」(正確ではないが)
日本で良くこういう言われ方をするのを耳にするのだけれど、違和感を感じる。

確かに、日本では、「フェミニズムアート」という文脈はないにも等しいけれど、素晴らしい作品を発表し、活躍している女性アーティストはたくさんいる。
評価されている方もいるけれど、評価のされ方はどうなのだろう。
女性アーティストの歴史的再考も始まっている。
50〜60代のアーティストの方も参加されていたので、お話しを聞かせてもらえばよかった。
学生の方は、どんな風にこの講演会を聞いたのだろう?
講演後、ジュディ・シカゴは、学生へ「今日の講演でショックを受けたか、何にショックを受けたか?」という問いかけをしたが、その問いかけに対応する発言はなかった。

日本の「フェミニズム」と「アート」の「『概念』と『文脈』」は、どうなっているのだろう。
ないもの、あるいは、終わったものになってしまうのだろうか?

私の感じる、溝とズレが一瞬なくなった時がある。
それは、コメントを求められた上野千鶴子さんが「(英語で)あなたが、継続的な闘い(struggle)をされていることを知ってうれしい。」(正確ではない)と、声を発せられた時。
そして通訳の方が、struggleを何か違う言葉に訳した時に、「『闘い』と言って下さい」と。
その時だけ「『概念』と『文脈』」が、カチッときた。

そして、上野さんは、「『フェミニズム』という単語を使わなくても、それは既に広く浸透しています。」と続けられていた。
日本の「文脈」を読みとる眼をもちたい。



それにしても、なぜ今、ジュディ・シカゴなのだろうか。
by artemisk | 2007-07-26 17:00 | fragment
至福の時
夏の朝のシャワーは、私の至福の時。
「あー、気持ちいい!」と思わず出てくる言葉に、
自分でもはっとする。

6月16日のHACOさんと松井智恵さんのイベントの前々日に、ようやくHACOさんの「RISKA」を新宿disk unionでget!

私の至福の時を呼び起こしてくれる「Shower Alone」。
「Full-colo Palette」、「No ENVY, No Meanness」、HACOさんの歌声とそれぞれの音に聞き入っていく。
「No Envy, No Meanness」のトランペットの音とつぶやくような声の呼応。「Magnetic Field of Riska」は、自分の中の波長、振動に、響いてくる。

『「RISKA」は架空の人物についての物語 - それは声であり、繊細でしなやかな手、音そのものへの回帰、空気のふるえ』(Haco「RISKA」)



16日は、HACOさんのミニライブと「RISKA」のCDのジャケット・アートワークを手がけた美術家・松井智惠さんの新しい映像作品の上映&トークが、渋谷のUPLINKで。

とても楽しみにして家を出たものの、久しぶりの渋谷駅、いつもの事だけれど、人混みと疎外感を感じる空気に、家に戻りたい気分に。息をこらし早足で東急まで。いったんUPLINKで整理券をもらい、東急文化村地下のNADIFF Modernへ。
「女たちが変えるアート」というコーナを発見して、
日本も変わっていくのかという淡い期待。

イベントは、松井さんの映像作品上映で始まる。
ハイジシリーズの新作。映像と音、その時間に引き込まれつつ、映像が終了し、HACOさんのライブへ、音とHACOさんの歌声が始まる。
その間の空気の変化、ひずみ(?)、何かがさわっと波だったような気がした。
初めて体験する、いいプログラム/構成。
素晴らしいアーティストの競演の場にいられる、至福の時。
音楽と美術、それぞれの現場で活躍されて、そのオリジナルさ、そして表現領域をも切り拓かれてきたお二人、その先鋭的な作品上映とライブ、そして普段着(?)のようなat homeなトーク。
すっかり堪能させていただきました。

私が希求している「生き延びるための文化」(上野千鶴子さんの本のタイトルに倣って)、 「私たちの文化」(期待を込めて「私たち」)に触れた思いがしています。


最近、マリンバの音で朝が始まります。
もちろんCDジャケットは立てて飾っています!
至福の時に感謝!!


おすすめです!!

Haco「RISKA」
ディスクユニオンの紙ジャケレーベル・アルカンジェロから
(品番:ARC-1122)
*松井智惠氏の描き下ろしによるジャケット・アートワーク (水彩&ペン画)
http://blog1.musicfield.jp/haco/archives/2007/02/hacoriska.html



by artemisk | 2007-07-08 17:10 | fragment
「ショッキング・ファミリー」
見たいと思っていた映画「ショッキング・ファミリー」を、来日中の監督のトークとともに、先週末見ることができた。

私と同世代の韓国の女性監督の作る映画に、心動かされることが多い。
「居留—南の女」(監督ソハ)、「美しき生存」(イム・スルレ監督)は好きな映画。
そして、今回、キョンスン監督の「ショッキング・ファミリー」 もしかり。
今の社会状況をしっかり分析/批判し、ポジティブなメッセージ、イメージを届けてくれた。そして、映像表現も自由で、実験的なのだ。
それは、私がとっても欲しているもの。

「なぜ、『ショッキング・ファミリ』というタイトルにしたのか?」という質問に、
「普通にある話しだけれど、話されていないこと。だから逆にショッキングなのだ。」とキョンスン監督は答えていた。

彼女は韓国の今の女性の状況を、意識の変化の上でも、過渡期だと思うと言っていた。
多分、日本でも同じで、過渡期と認識できるかどうかの違いがあるだけだと思う。
そして、彼女は、映画の中で、一貫して「個人として生きることは?」と問うていた。
それが、私の問題意識と共鳴した。

娘との関係、一緒に映画を作る世代の違うスタッフとの関係、
彼女は、その個と個の間に生じる権力関係にもまなざしを向け、そこから異なる関係を創造しようとしている。
それが、この映画の新しいリズム、イメージを生み出しているのだと私は思う。
「ポップ・ドキュメンタリー」と感想を述べた方がいたが、ヒップホップ調のリズムにのせたメッセージは、楽しく、そして泣きたくなる。
ラストシーンで、バンジージャンプに挑戦する監督が、「鳥のように飛べる」と未知の世界に飛び出す映像は、忘れられない。

インタビューの中の監督の言葉が響く。
「心を開けばいいんだ、心を開いてみたら他の人も同じ問題を抱えているとわかったのです。自分の生き方は変わっているのかと思ったら、それが自然だったと。皆それぞれ違うけど、それを認めることが大切だと気づきました。力を得ることができました。」


「ショッキング・ファミリー」 (監督キョンスン)(ドキュメンタリー/韓国/2006/110分)

「家族のあり方にもいろんな形があっていい」と思うけど・・・」
*韓国で長く法律で定められていた戸主制度の廃止など変化する社会の中で、揺れ動く家族たち。
自立を求めて新しい価値観に挑戦する女性たちとその家族を、時にはシビアに、時にはユーモラスに描きます。海外養子制度や受験戦争などの社会問題も交えたドキュメンタリ
ーオクラン賞受賞作品。2006年東京女性映画祭/女たちの映像祭・大阪上映作品ー

当日、通訳をされた方のインタビューがall aboutにUPされています。
http://allabout.co.jp/entertainment/koreaentertainment/closeup/CU20070212A/
by artemisk | 2007-02-19 19:09 | fragment
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